はっさくの花の香り-PTSDを乗り越えて

出産直後の集中治療室(ICU)、退院後の不安、抑うつ、そして心的外傷後ストレス障害PTSD)、これらが集合して家内は不眠症という病に侵されていきました。それが本当の意味で始まったのは、子供が3歳から4歳になろうとしていた頃、3回目の米国留学から帰国した夏でした。

 

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それから約12年間、私と子供は家内に宿った病と言う魔物と闘わなければならなくなりました。

 

苦しかった12年間のことを何度も何度もパソコンに打ち込もうとしました。しかし、どうしても書き進めることはできませんでした。今はまだ、長く暗い時のトンネルを逆行することができないようです。ありったけの苦しみを、ここに書き留めるだけの覚悟と勇気を持ち合わせていないようです。

 

Twitterで、最近、貴重なコメントをいただきました。限られた字数であるにも関わらず、医師、あるいは医療に対する不満が書き留められていました。「その分野では有名と言われる医師に診てもらったが、まったく改善しなかった」、そんな内容でした。これを目にした時に、はっと気がつきました。家内は病気を克服できたわけだから、負の側面を描写するのは止めよう、長期間の闘病からどのようにして脱したか、それを皆さんにお伝えすることを選べばよいのではないか。

 

若い若い先生が、家内を治してくれました。大変申し訳ないですが、威厳はありません、有名でもありません。しかしその先生は、見事に家内を普通の人に戻してくれたのです。

 

家内の不眠症が始まった時は、関東のマンションに住んでいました。なので、東京や神奈川にある有名な病院は、どうでしょうか、20か所以上は廻ったと思います。コネを使い、パソコンで調べ、あるいは本を買って調べ、不眠治療で名前が知られているような先生に診てもらっていました。7万円を払い、家に白装束をまとったそれなりの雰囲気がある女性がやってきて、炎で舞い上がった黒くなりつつある紙を家内は一生懸命食べていました。都会の一等地に診察室を構える、1時間1万円近くするカウンセリングに何度も通いました。マンションの一室で、家内の身体に手を当てながら、何かを念じている先生の施術も受けました。それでも、一向に治まる気配はありませんでした。

 

その当時、近くには親父が住んでいました。ある時、新聞から情報を入手したと思うのですが、「家内と似たような症状の人が漫画に描かれている」、と言うのです。そして関西の〇〇病院の院長さんがその病気を治したそうだ、その先生は有名らしいぞ、一度行ってみるか?そんな話だったと思います。しかし、関東に住んでいるわけですから、関西の病院に通うことまでは考えが及びませんでした。そこで、「どうもありがとう」程度で、その時は終わっていったように思います。しかし、これが家内を救うきっかけとなります。なぜならば、6月29日のブログ「私の田舎暮らしは神様からの贈り物」で書かせていただきましたように、我々家族は2012年のゴールデンウイークの最終日に決心し、それから10日余りで関東の地を離れ、はるばる関西まで引っ越すことになったからです。

運命の日 

荒れていました。一軒家のすべての窓のシャッターは、午前9時を過ぎようとしても、閉じられたままです。その時の家内の体重は40kg以下、伸長が160cm近くあるので、どんな状態か想像してみてください。顔はやせこけ、目は血走ってにらんでいる、その日も早朝から寝れない苦しさを大声で叫んでいました。死ぬ、死ぬ、死なせろ、早く殺せ、早く殺せ、と叫んでいました。そして私のTシャツは引きちぎられていました。腕を噛まれ、出血していました。近くには包丁が転がっています。それでも何とか、親父が探してくれていたその病院に、家内を連れて行くことに成功しました。今となっては、なぜ家内が私の指示に従ってその病院に行ったのか、本当に不思議です。

 

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やっとの思いで病院に連れて来ることに成功したわけですが、漫画に描かれていたその有名な院長先生は担当医ではありません、担当医はスポーツマン風の眼鏡をかけた若い医者だったのです。正確な年齢はわかりませんが、私の見立てでは30代前半、もしかすると20代後半くらいだったと思います。今まで診てもらってきた医者とは明らかに違う、それは一目でわかります、もちろん悪い意味で。「この人じゃ家内に簡単にやられてしまうぞ」、その先生に対する私の第一印象でした。

 

1回目の診察は、長時間を要しました。ふてくされながら答える家内、要するに「またおんなじこと聞くのかこの若造」、そんな感じだと思っていただいて構いません。「お前なんかに私は治せないだろう」、そんな挑発的な態度だったかもしれません。

 

2回目の時、まだこの時点で家内はこの若い医者を全く信用していませんでした。意思の疎通がうまくいかず、家に帰ってきてすぐに、薬の袋詰めの仕方にクレームを付けました。そこで、私は、急遽、薬交換のために病院に向かうことになりました。車で片道1時間半、やっと病院に到着しました。家内がいないので、その先生と私は二人っきりで会うわけです。そして言われた言葉は、「私は奥さんのような患者さんを診たことがあります、半年くらいで何とかなると思います」、そう告げられました。信じられない言葉でした。12年苦しんでいるわけですから、それに「何とかなる」なんて言った医者は、後にも先にもこの若い先生が初めてです。それは、6月末の出来事です。半年後と言えば、クリスマス、クリスマスまでに良くなるのだろうか?私は、信じようとしました。奇跡を信じようと思いました。この言葉に、希望を持とうと思いました。「診たことがある」、心強い一言でした。

 

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その年のクリスマスは、普通のクリスマスでした。2012年の12月の普通のクリスマス、これがどれだけうれしかったか、皆さんお分かりいただけますでしょうか。人生最高のクリスマスが、我々家族に訪れました。

まとめ

それでは、この大変若いのに家内の健康を取り戻した先生と、それまで診てもらっていた先生、どこが違っていたのでしょうか?私は言葉の使い方だと思っています。家内は、関西出身です。関東の先生の言い方は、四角っぽいように感じます。一方、関西の先生は丸いように思います。この違いではないでしょうか?関東では「大丈夫」というところが、関西では「イケる」「イケてる」、「気持ち悪いよね」が「ホンマしんどいな」、「そうなんですね」が「ホンマやな」などです。些細なことかもしれませんが、家内とのやり取り一つ一つに先生の心がこもっているように私には感じました。医者と患者の信頼関係が病気を克服するための第一歩、それを成立させるのは言葉です。特にこの若い先生の言葉には、関西と関東の違いを越えた、さらに何かがあるに違いありません。結局、先生から処方された薬をしっかりと飲み、先生の指示通りに日中動くようになり、負荷が低い仕事をして生活リズムを整えるようになり、そんな単純なことの繰り返しで12年の闘病生活にピリオドを打つことになりました。

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若い先生の言葉が、家内の病魔を取り除いてくれました

めぐり合わせ

私は良いお医者さんと巡り合えない方は、自分に合った言葉を使ってくれる、そんなお医者さんを探してみるのも良いのではないかと思います。気持ちに寄り添ってもらえる、そんなところから治療は始まっているように思います。手当、あなたの身体に優しさと言う手を差し伸べてくれるそんなお医者さんは、我々家族が経験したように、偶然、そして突然見つかるかもしれません。長期間の闘病は、制限時間のないマラソンのように思います。いつかはゴールにたどり着けます。必要なことは、ゆっくりでもいい、歩いてもいい、時々止まってもいい、それでも前を向いて進んで行く、ゴールは徐々に近づいてきます。

 

今年も5月にはっさくの花が咲きました。我々家族が関西に到着したその日も、はっさくの花の香りが漂っていました。

 

追記:先生の口癖は「教科書に書いてあります」です。本当に新人さんだったかもしれません。