SNSは田舎暮らしの必需品です

ふりかえり

私のブログ「元大学教授の価値観って、なあに?」の中では、都会と田舎の対比を蜜と疎で行いました。物質的な面ではなく精神的なレベルで、この関係性に注目しました。都会で生活していても精神的に疎の状態で生きることは、田舎暮らしの準備段階であるという捉え方です。

 

私が精神的な疎の中で生きていくために必要なものとして挙げたのが、精神的に支え合えるパートナーの存在です。人間が生きていくために必要なものは、空気です。だから、この関係性を利用して、パートナーすなわち家内は私にとっての空気としたわけです。これだと、なんだか愛情がなくて冷たい感じですよね。違います、愛情はいっぱいあるんです、ただ、恥ずかしくて書けません。

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SNSとオンラインコミュニケーション

本当に2人だけで寂しくないのか、満たされているのかというと、そうではありません。その足りない部分を補填してくれるものの1つが、SNS上でのつながりだと思います。コロナ禍が訪れる前までは、SNS、すなわち画面を通してのつながりは、どちらかというと否定的に受け取られがちだったと思います。しかし、自粛生活を強いられSNSが生活の一部の地位を確立すると、見直されたのではないでしょうか?少なくとも私は、そうです。さらに、zoomなどを利用したオンラインコミュニケーションは、直接、顔を合わせて話をするより楽で、便利です。相手の顔をよく見ることができます。面と向かった場合、例えば自分より30歳くらい若い女性と話をするときなど、いろんな意味で顔を見つめることはできません。しかし、パソコン画面上ではしっかり見ることができます。声もそうです。音量を調整できますのではっきりと聞くことができます。それから、何よりも楽な恰好で会話ができます。映る部分はしっかりした服、下は短パンなんて具合です。しかし、当然セキュリティーの問題や炎上、知らぬ間に個人情報を盗まれるなどの危険を持ち合わせていることを、しっかりと肝に銘じておかなければならないですね。

Twitterのポテンシャル

Twitterを通して、多くの方々と知り合うことができています。留学中のポスドクの方々から いいね をいただくと、嬉しい反面、正確で情報量の多い文章を書かなくてはと、背筋が伸びる思いです。つながりかたも様々です。花が好きな人、景色が好きな人、あるいは料理が好きな人と、制限なくつながっていけるように感じています。ある時、私の英語の解釈の間違いを日本語も英語も堪能な外国人の博士の先生から指摘されたときは、肝を冷やす思いでした。短い文章の中に込められたそれぞれの書き手の思いを読み取ることが、こんなに面白いとは思いませんでした。昨晩はTwitterが動かなくなり、寂しい一夜を過ごしました。いい年した大人が、何をやってるんだというところでしょうか。

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大空を自由に滑空するトンビ

ブログは、どんな世界観なんだろう?

このブログを始めて、そうです、数日前に始めたばかりです、さらに状況が変わってきました。ツイートでは語れない内に秘めた思いのようなものを、表現することができることに気が付きました。ここで表現することに、どれだけの意味があるのかはわかりません。ただ、新しいつながりを構築できるように思います。

研究者としての表現は、論文を書くことと学会発表でした。それはそれで楽しめました。ただし、テーマが限られ、字数や時間に厳しい制約があります。そういう意味で、ブログは楽です。それほど厳しい制限がなく自宅から発信できます。テーマも自由です。今日は、本当は田舎の車事情について書くつもりでした。しかし、終わってみればSNSについて書いています。これが、ブログの心地よさかもしれません、満喫中です。トンビのように自由に飛んでいたいです。

 

追記:学術論文も書いています。

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