結婚、妊娠、出産、そして集中治療室(ICU)

 出会いから結婚式

家内とは、叔父の紹介のお見合いでした。端正な顔立ち、英語が得意、関西在住、そして血液型はB型、写真と釣り書きを受け取った時の私の記憶です。英語と関西、私から叔父に伝えた条件です。私は、B型の人、男女を問わず仲良くなりやすかったので、B型は大歓迎でした。

 

東京で初めて会い、数回目のデートで結婚を申し込み、すぐにOKの返事を無事にいただきました。それから、粛々と結婚へと時は流れていきました。

 

家内の希望で、テラスのあるレストランが結婚式場です。東京の隠家的なフランス料理のレストランです。場所は駒沢大学前、渋谷の近くの閑静な住宅街のお店でした。

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結婚式当日

 

初めての留学

6月に式を挙げ、7月の米国独立記念日に留学先のボストンに到着する日程でした。飛行機から花火が見られるのではないかとほのかに2人で期待していたのですが、乗り換え時のトラブルで当地のホテルに一泊、翌日の日中にボストン到着となりました。3か月間の短い、そして初めての留学にもかかわらず、途中でドイツのハイデルベルクの国際学会に参加し、実り多き新婚旅行を兼ねた初留学の旅でした。

 

切迫流産で入院3か月

妊娠していることが間もなくわかり、全く平凡な新婚生活でした。しかし、これから待ち受ける長い長い試練の時間がすぐそこまで忍び寄っていたことを、その時は誰も知りませんでした。「切迫流産するのではないか」、この不安があったので、いくつかの産婦人科を受診した後、家内の実家の近くの関西の病院に入院することになりました。私は、関東の大学の研究室で実験科学者として働いていました。多忙な日々を送っていましたが、週末の土日を利用して、病院に何度もお見舞いに通いました。何回目かの羽田空港関西空港行きの第1便に搭乗する際に、若い女性数名が私に向かって駆け寄ってくるではないですか。びっくりして背筋を伸ばしていると、私の前にはキムタクや慎吾ちゃんがいた、なんてこともありました。

 

出産

3か月間の入院を経て、いよいよ出産日です。帝王切開で出産することが決まっていましたので、予定通りに娘が現れました。家内や娘には大変申し訳ないのですが、生まれたばかりの赤ちゃんの顔を見た瞬間、「この子は、私の子供に間違いない」と実感したのをはっきり覚えています。娘は小さかったので、赤ちゃん用の集中治療室(NICU)に入院し、しばらくしてから私は飛行機で関西を後にしました。

 

 敗血症でICU

関東に戻ってから6日後、真夜中に電話が鳴りました。急いででると、「奥様が発熱(42℃)し危篤です」という知らせです。「え、何が起こったんだ」。近所に住んでいた親父とともに、車で関西に直行しました。途中、亀山インターで軽い休憩を取り給油、病院に到着したのは午前4時を少し過ぎたころだったと思います。すでに家内は、集中治療室、そうですICUにいました。病名は敗血症、そのショックで心臓が弱くなり、変わり果てた姿で生と死の間をさ迷っていました。本人曰く意識があったようですが、本当に弱りはてていました。薬が迅速に注入できるように、首に太い針が刺さっています。腕にも刺さっています。そして、鼓動をモニターする病人の頭上の機械から、約1秒毎のビープ音、モニターには数字と波形。

 

私のICUの記憶

ICUの中では、1枚のカーテンで区切られた空間に、何名かの患者さんがいます。家内がそこにいる間にも、隣の患者さんが別の世界に旅立っていってしまいました。家内は覚えていないそうですが、ベッドに寄り添っていた私は記憶しています。「名前を大きな声で叫んでください」、それとともにご家族の誰かが名前を涙声で連呼、しかし、慌ただしい時が過ぎていくと、すすり泣き、そして静寂が戻ってきます。そんな印象を私はICUという空間に持っています。家内の場合も然り、ほとんど意識がありませんが、一所懸命生きようとするする姿が、周期的になり続けているビープ音から感じられました。ぷー、ぷー、ぷー、ぷー、ぷー、この連続がその時の全てであり、家内が生きている証拠でした。そして、爪跡が永遠に残るのではないかというくらいの強さで私の手を握り締め、「生きたい、生きたい、死にたくない」、その言葉を繰り返すのがその時にできる唯一の家内の仕事でした。

 

ICUの患者の身内は、基本的にICU近くの廊下で寝泊まりすることになります。私も段ボールとタオルケットを準備し、数日をそこで過ごしました。正確に何日間そこにいたか、どのくらいの人が私のように寝泊まりしていたか、もう、全く覚えていません。ただ、研究を発表するための論文を書いていたことは、鮮明に記憶しています。多分、研究に没頭することで、この世の現実から逃避できていたのだと思います。その後、家内の体からMRSA(薬剤耐性菌)が検出されました。ICUの中でも、隔離された部屋に移されました。これは、私達夫婦にとっては幸いです。死に行く人を、毎日のようにカーテン越しに感じることはなくなったからです。

 

隔離と回復、そして

結局、なぜ、敗血症になったのか、原因となる菌は同定できませんでした。MRSAは検出されていましたが、それは原因ではなさそうだという病院側の見解でした。敗血症によるショック状態は、今から思うにサイトカインストームです。免疫グロブリン投与が功を奏し、家内の一命は取り留められました。約2週間でICUから一般病に移動です、娘もNICUから無事に退室することになり、さらに間もなくして家内と娘の2人は、関東の地へと戻ってきました。「やった、生還してよかった、かわいい赤ちゃんが増えた、バンザーイ」となるはずでしたが、私達家族にはこれが長い長い暗黒の時の始まりだったのです。

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追記:最新論文を読んでいるときに、敗血症によるサイトカインストームと新型コロナウイルスが引き起こすサイトカインストームを比較したCell PressのImmunity誌の論文(2020年6月28日)を読みました。その時に、このブログを書くことを決めました。

Mangalmurti N. & Hunter H.A. Cytokine Storms: Understanding COVID-19.Published:June 28, 2020DOI:https://doi.org/10.1016/j.immuni.2020.06.017